知られざる中世城壁都市・鎌倉
その頃世界は、そして鎌倉が
平安期半ばから鎌倉幕府があった頃は北から南まで東ア
ジアの情勢は流動的だったようです、最終的にはモンゴ
ルが世界帝国をつくったように世界的に民族が流動的だ
った時代で、日本列島もあわや西の大和朝廷と東の鎌倉
幕府に分裂の危機にさらされていた、かろうじて幕府と
いう形態をとったため形だけ統一国として残ったという
認識もあるくらいです。
(右へ)
決して日本列島の人々だけが島に籠もってはいられなかっ
た、北ではそのような動きからアイヌ民族の成立の動きが
始まっていましたし、流通・征服と共に行われるのが常の
宗教の布教活動から北の情報を得ていた日蓮が盛んに国防
を叫んでいたくらいですから、流通路すなわち情報網を抑
えていた北条氏がそのような事態を知らなかったはずは無
いと思います。
(左下へ)
さて、鎌倉の城壁と切通しの防衛網を築いたのは頼朝で
はなく北条氏なのですが、一般に北条泰時の時に基本的
に整備され、主に北条氏が勝ち残る中で外部諸勢力と戦
うために造られた、例えば名越の猿畠の切岸は三浦氏へ
の防備というように。
元寇の時
博多湾に石累(城に石を使うのはその六百年前
三百年後で途中はない)を突然造ったのも、物流即ち
情報を抑えた北条氏だから
朝鮮半島の石の城の情報を得
ていたからでしょう、従って我が国で異例な城壁の都市
を造ったのは鎌倉周辺勢力に対する防備から始まったものをこのような世界の情勢から補強したと・・・、
考えすぎでしょうか、その位面白い鎌倉です。
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