11.来島城 その3

しまなみ海道・水軍の城を訪ねて
来島城 その3 全ての写真はクリックで拡大します
来島の潮流
本丸から
https://plus.google.com/u/0/photos/104403803135207386325/albums/6101894580458459841/6101894795384969762?pid=6101894795384969762&oid=104403803135207386325
白石一郎の小説『海賊たちの城』は、
角牟礼城のある豊後の山奧に転封され
れた来島氏の末裔豊後森久留嶋藩藩主
が大山祇神を祀る末広神社を城に造っ
てしまう物語ですが、そのキーポイン
https://plus.google.com/u/0/photos/104403803135207386325/albums/6101894580458459841/6101894684322476210?pid=6101894684322476210&oid=104403803135207386325
これが来島海峡の潮流で大河の急流が
あるかのようです、この流れは干満で
逆流します、さらに来島海峡の底は極
度の高低差があるために海底の凹凸で
沸き潮という水面に対して縦の潮流が混ざるということで、
来島の語源が「狂い潮」という説がうなずけます、現在の船
でも難しい航路ですから往時の帆と手漕ぎの船の時代では相
当の熟練が必要だったと思われます、そこに水軍の存在があ
ったのではないでしょうか。(写真は来島の隣の小島で撮影
したもので船の航跡ではなく潮流です)
トが祖先の地を訪ねた時のこの本丸から見る瀬戸内でした。
写真は対岸四国側の波方町です、波方町は陸城の根古屋にあ
たるのでしょうか水場とも呼ばれて女子供や年寄りや平常時
の館などがあった
そうです、ちょうど港に水道船が着いてい
ましたが今でも島の水は対岸から運んでいるそうです。
野間
野間馬は今治藩の軍用馬で馬島はそれ
を放牧ていた島です、明治期に軍馬を
サラブレッド化するために人為的に日
本の小型在来馬が撲滅
されました、し
かし瀬戸内や四国山間部など目の届か
出丸から来島海峡
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左の写真は出丸からの来島海峡です、
写真の左側の島が小島(おじま)で右の
橋の下の島が馬島です。
小島要塞(芸予要塞)
https://plus.google.com/u/0/photos/104403803135207386325/albums/6101894580458459841/6101894702098385730?pid=6101894702098385730&oid=104403803135207386325
ないところで農耕用に奇跡的に残り、今治市の野間馬ハイラン
ドに個人努力で繁殖された数十頭がいます、武将が乗ったのは
ドラマのサラブレッドでなくこのような背の低い馬
でした。乗
っている人の足が地面に届きそうなのでロシア軍に足が六本あ
る馬と馬鹿にされたのが軍の日本種撲滅のきっかけとか。
小島(おじま)は明治期の芸予要塞の
遺構が良好な状態で残っています(今
治の波止浜港から渡船で行くことがで
きます)。