05.その2:防御性集落としての中里城

北のまほろば・奥州の城を訪ねて
その2:防御性集落としての中里城
中里(なかさと)城は発掘の結果三つの時期の遺物が出ました、古くは縄文期遺跡から新しいものは室町期遺跡で時期的には安藤氏と南部氏の軋轢が強まった頃の安藤氏の城館の一つだったようで城主に新関又四郎などの名が残りますが不詳です、安藤氏滅亡以降江戸期に村ができるまで中里の名は再び消え城としては使
われませんでした。

さて残るのは三つの遺物の時期の真ん中のもので平安時代10世紀後半から11世紀の頃のものです、安藤氏の頃の中里城はこの付近の多くの城と同様に平安期に作られた遺跡の跡を利用したものでした、この遺跡は
防御性集落と言い弥生期の防御性集落同様に高台に家を建て環壕を堀り柵列で防御した集落で広義の城郭要素を持っています。
時期的には大和律令体制が一旦津軽海峡に達した後で武士の台頭など中央の混乱から支配力が緩むことにより北海道の擦文文化がこの地方の鉄器などとの交流を求め海峡を渡った頃で北の勢力と大和系の地方勢力が極度の緊張を生み青森から岩手北部に防御性集落が多く作られました。自治体は中里城を中世の城として残したいようですが防御性集落の知名度を高め時期が合致する福島城と一体化した認識を作り出すべきと思います。