01.倭城を訪ねて1 はじめに

近世城郭の源 倭城を訪ねて
倭城を訪ねて1 はじめに
本来は倭という文字に歴史的含みもあるが、1999年5月九州大学講堂での日韓倭城研究者の「倭城研究シンポジウム」での「同名の朝鮮諸城との混乱を避けるため秀吉日本軍の城を倭城とする」という申し合せに準拠し倭城とします。
文禄・慶長の役
日本では文禄・慶長の役、韓国では壬辰倭乱・丁酉再乱という両国にとり不幸な歴史があります、豊臣秀吉の命により日本軍が突然朝鮮半島を侵略した事件でこの歴史事実は絶対忘れてならないことです。
倭城の位置
しかし一方では韓国南岸にその時に秀吉の日本軍が構築した倭城と呼ばれる城の遺構が30以上残っています、当時日本は戦国の最末期で中世城郭の築城技術も高度に進化し、織豊の城が急激に力をつけてその後の近世の城郭として完結する寸前でした。
倭城と織豊の城
関ヶ原後の築城ブームは多くの城がそれ以前の中世の城の上に造られたので中世最晩期の遺構は殆ど壊されました、しかし倭城は建物は壊されましたが石垣や土塁はそのまま山野に埋まり純粋に当時のままの縄張り姿で残されています、また約7年という短期間の遺構ですがいわゆる織豊の城が日進月歩の時で城郭技術史的にも貴重な遺構です。