10.三年山城その2 背景

三年山城その2 背景
新羅の慈悲王13年(AD470、現地案内図はBCと誤表記)に造りはじめて三年かかって完成した逃げ込み城の形式を持つが百済への最前線の戦闘用の城であり、城壁や水門など特異な特徴を持つという486年に改修される。

当時の百済は新羅攻撃に意欲を持っており新羅としては相当な覚悟で造ったのではないだろうか。この城が健在のころ盛んに新羅に挑んだ百済の聖王はこの近くの沃川で戦死した(553)、そのとき3万人の百済兵がこの城を攻めたが落とせなかったという。

  三年山城=サムニェンサンソン、新羅=シルラ、慈悲王=チャビワン、百済=ペクチェ、
  聖王=ソンワン、沃川=オックチョン、加耶=カヤ、高句麗=コグリョ
当時まだ完全に大和国の軍門に下っていなかった吉備国も鬼ノ城を独自に造るが加耶と親しかった吉備は百済式の大野城などと異質であり加耶技術で築城したのではないかといわれる、加耶の築城技術の後には新羅がそしてその後には高句麗の技術があるというがさらに西域へと続くのだろうか、この韓国でも特異だという三年山城もそうなのだろうか。
そのあと新羅は唐と同盟を結び百済は滅亡する(660)、百済と同盟関係にあった大和軍も駆けつけるが新羅・唐連合軍に負ける(663白村江の戦)、
逆に唐軍が追ってくるという情報 (実際博多湊に二千人程の兵が乗った唐船が駐留したという説もある)で対馬から畿内に大野城など多くの「朝鮮式山城」をつくるはめになる。