25.公山城その7 終章

公山城その7 終章
大野城などを築城した時日本(大和)に持ち込まれた城郭技術のうち石積みの部分ですが、このあとの城郭では石積みは使われなくなります。そして600年後に元寇のときに一度博多湾に石の防塁が築かれるだけで、更に300年戦国末期まで待たないと石積みが城に使われません。

その間どこかにその技術が潜伏していたことになります、多分神社や寺そして貴族屋敷垣根などでしょうか、安土以前の石垣とおもわれる観音寺城をみるとまさしく石の垣ですから。
写真はクリックで拡大します
公山城の北門と城壁そして錦江
大野城の門脇の百間石垣
https://plus.google.com/u/0/photos/104403803135207386325/albums/6101911079608337457/6101911244769663058?sort=1&pid=6101911244769663058&oid=104403803135207386325
https://plus.google.com/u/0/photos/104403803135207386325/albums/6101911079608337457/6101911288513908642?sort=1&pid=6101911288513908642&oid=104403803135207386325