26.扶餘その1

扶餘その1
百済はソウルにあった漢城を高句麗に落とされ(475年)都をずっと南の熊津(現公州)に移した、熊津で武寧王(501-523)頃には安定するが次の聖王は538年都をサビ今の扶餘に移す。

聖王は新羅と組み高句麗に奪われた地を取り戻すがその後新羅が背き再びその地を失うや敢然と新羅に攻撃を開始する(聖王はその戦いで戦死)、百済の新羅攻撃はつづき義慈王のころは更に激烈になり新羅の地を奪い高句麗とも結ぶ、しかし新羅は唐と結ぶことに成功し勢力は逆転する、

内部対立もあり百済はサビの扶蘇山城を落とされ660年に滅亡、百済の残存勢力は大和と組み再興を図るが唐・新羅の連合軍に敗れる(662年日本書紀の白村江の戦)、このとき対馬から畿内に多くの朝鮮式山城がつくられた。668年唐・新羅軍は高句麗も滅ぼし半島が統一され統一新羅となる。
https://plus.google.com/u/0/photos/104403803135207386325/albums/6101911079608337457/6101911302461797138?sort=1&pid=6101911302461797138&oid=104403803135207386325
扶蘇山城

サビの都の城が扶蘇山城である、熊津(今の公州)を流れる錦江の下流である白馬江が大きく蛇行するところに突き出た低い山の全体が羅城と一体化した扶蘇山城である(左の案内図の右上の山)。図は現地案内図をつかわせていただきました、クリックすると拡大します

扶餘=プヨ、聖王=ソンワン、義慈王=ウイジアワン、

注:サビは泗(さ)とビ(さんずいに比)ですが文字が
出ませんのでサビと表記します。